
_-_The_Girl_.jpg)
ヨハネス・フェルメール 「真珠の耳飾りの少女」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
真珠の歴史
真珠は「月のしずく」「人魚の涙」とも呼ばれ、古くから世界の人々を魅了してきました。 エジプトでは紀元前3200年頃から既に知られていたと言われ、クレオパトラが酢に溶かして飲んでいたという話は有名です。
中国では紀元前2300年頃、ペルシャで紀元前7世紀頃、ローマでは紀元前3世紀頃から真珠が用いられていたという記録があります。
世界最古の宝石ともいわれる真珠の歴史について、ご紹介させていただきます。
古代の天然真珠
海に潜って、真珠を集めていた世界最古の地域はアラビア半島であるとされています。その中でもバハレーン島が真珠採集の中心地でした。古代メソポタミアの歴代の王朝は真珠を愛好し、当時の遺跡からまとまった数の真珠が出土しています。
オリエントのもう一つの真珠の産地は南インドでした。真珠の産地はマンナール湾で、美しい真珠が生み出され、王朝に献上されていました。このオリエントの真珠をヨーロッパ人が知るきっかけになったのが、紀元前330年代のアレクサンドロス大王の東征とその後の東西交流でした。1世紀になると、古代ローマ帝国の人々はインドと交易を行うようになり、真珠や宝石がローマにもたらされました。
クレオパトラと真珠
エジプト最後の女王となったクレオパトラは歴史上もっとも大きな二つの真珠を持っていました。クレオパトラはローマの政治家であるアントニウスに今まで見たことがないような贅沢な宴会を開くことができると言いました。アントニウスはそんなことはできないと主張し2人は賭けをすることになりました。その後クレオパトラは宴会を開きましたが、普段の宴会とそれほど変わったところはありませんでした。アントニウスがそのことを揶揄すると、クレオパトラは耳につけていた世界最大の真珠のイヤリングの片方を酢の中に入れ、真珠を溶かし、一気に飲み干しました。こうして、この賭けはクレオパトラの勝利となりました。

ヤーコブ・ヨルダーンス作 1653年

1492年10月12日、コロンブスのサン・サルバトル島上陸の絵
大航海時代の真珠
マルコ・ポーロが「東方見聞録」のなかでオリエントではインドと日本で美しい真珠がとれることを報告すると大航海時代のヨーロッパの国々は,
東のオリエントを目指しました。
1498年スペインのコロンブスは第三回航海でベネズエラに到着し、真珠を発見しました。そうしてベネズエラはオリエントに変わる新たな真珠の産地となりました。
一方ポルトガルのバスコ・ダ・ガマはインドに到達し、真珠を発見しました。さらにはセイロン島にも進出して真珠を採取しました。
こうして世界の真珠がヨーロッパに集められ、流通していきました。
イ ギリスの真珠取り
1796年イギリスはセイロン島の沿岸部を植民地にし、19世紀半ばにはアラビア湾(ペルシャ湾)の制海権を手に入れました。
イギリスが支配するようになったペルシャ湾は世界最大の真珠採集の漁場でした。オリエントでは真珠は王の証であり絶大な人気があり、それはヨーロッパの王妃たちもまた同じでした。

エリザベス1世
「アルマダ海戦の勝利」ジョージ・ガウアー
日本の天然真珠
古代日本でも他国と同様、アコヤ真珠の一大産地でした。古代の日本人は真珠を中国への朝貢品として使用しており、真珠は日本最古の輸出品のひとつでした。中国の「魏志倭人伝」や、「後漢書」にも日本の真珠の記述があり、その歴史がうかがい知れます。
奈良時代になると、真珠は天皇の衣冠束帯に欠かせない物になり、位の高い人々の象徴の品でした。13世紀末のマルコ・ポーロの「東方見聞録」でも日本が黄金と真珠の国であると紹介され、ヨーロッパ人は日本の真珠を認知することになりました。その後、日本では鎖国が始まり、日本が真珠の産地だということは、しばらくの間ヨーロッパ人から忘れられることになり、世界の真珠争奪戦に巻き込まれなくて済んだのです。
江戸時代の真珠
江戸時代、日本と交易している中国人、オランダ人は日本の真珠に目を付けました 。江戸時代前半の真珠の産地は大村湾、鹿児島湾、英虞湾で、ほとんどの日本人は真珠に無関心でしたが、産地の人は真珠が交易品になることを知っており、ほとんどが輸出されていました。
江戸時代はアコヤ貝のケシ真珠が薬として使用され、真珠の需要が出てくると、全国各地でアコヤ貝が採取されました。その中でも大村藩(長崎)はアコヤ貝採取を藩の独占事業にしており、輸出用、薬用として藩の財源になっていました。
明治時代の真珠
1868年、日本は明治時代になり、新生明治政府が直面したのは、極度の貿易赤字でした、殖産興業が唱えられ、外貨を稼ぐことが急務となりました。そうした中、水産学の研究者が目を向けたのが真珠でした。中国の貝付き半円真珠をヒントに研究を重ね、1893年,御木本幸吉が貝殻内面に付着した半円真珠の養殖に成功しました。それは地蒔式と呼ばれ、貝を繁殖させて、海女が収穫しました。
1904年、見瀬辰平・西川藤吉によって、現在の真珠養殖の基礎原理である、ピース式と呼ばれる、核に外套膜を付着させて真珠を形成する方法を考案し、真円真珠の養殖に成功しました。
1916年には藤田昌世によって高知県宿毛市で5mmを超える大粒真珠(当時)の養殖が実用化され、日本の真珠養殖の技術が確立されていきました。
知られざる高知の真珠養殖
藤田の真珠養殖の成功で、高知の真珠の名は全国にとどろきました。しかし、1920年8月宿毛湾は未曽有の大洪水に見舞われ、養殖いかだはすべて流失、海底は泥海となり、漁場は閉鎖に近い状態となりました。出資者で社長の林有三は翌年死亡し,『宿毛人物史』では次のように述べられています。「あの大洪水がなく、宿毛の真珠養殖事業がそのまま順調に発展していたならば一体どうなっていたであろうか。現在の真珠界の地図は完全にぬりかえられ、おそらく林王国が出現していたであろうと思われる・・・・・宿毛こそ、世界に誇るべき、養殖真珠発祥の地であるが、途中で中断されたため、御木本パールの名におされ、世界はもちろん、国内、県内に於いても、ほとんどこの事実が知られていないのは、まことに残念である」こうして高知の宿毛で芽生えた真円真珠の試みはあっけなく終焉を迎えました。しかし、ここで生まれた真珠こそが、世界の真珠業者に衝撃を与えることになります。

宿毛湾

御木本パリ裁判(1924年)の判決文
養殖真珠と天然真珠
日本の真円真珠は1916年から商業生産が本格化しました。当時は5ミリ台6ミリ台が主流で、そのほとんどが海外向けでした。ロンドンやパリで販売され天然真珠より安い値段で販売されました。当時のヨーロッパの真珠商たちは、養殖真円真珠は天然真珠とほとんど見分けがつかなかったため、真珠を区別する必要がないとし、多くの養殖真珠が天然真珠と混ぜて販売されました。1921年ロンドンに養殖真珠がロンドン市場に紛れ込んだことをスクープされ、真珠商や所有者たちに不安と動揺を引き起こしました。ロンドンの名だたる宝石店で養殖真珠を真珠として販売することは虚偽記載であるという公式声明を出しました。養殖真珠騒動はフランスにも飛び火し、パリの真珠市場は一時閉鎖される騒ぎになりました。日本の真円真珠はヨーロッパの真珠シンジケートに衝撃を与え、養殖真珠の排斥運動がおこり裁判にまで発展しました。しかし、天然真珠と養殖真珠を確実に判断することができなかったため、真珠学の研究者は養殖真珠が本物の真珠であるという結論に至りました。 1929年、ウォールストリートの株価が暴落し、世界的な大恐慌が始まりました。日本の養殖真珠の台頭によりヨーロッパの天然真珠市場は壊滅し、バハレーン島やアラビア湾岸地域の人々は唯一の産業である真珠業を失うことになりました。
ガ ブリエル・「ココ」・シャネルと真珠
天然真珠は1930年に価格が暴落し、ヨーロッパでは取引のできない状態が続いていました。その救世主となったのがガブリエル・「ココ」・シャネルです。シャネルは真珠をこよなく愛し、彼女が考案したリトル・ブラック・ドレスと真珠の組み合わせは定番となり女性たちの圧倒的な支持を得ました。しかし、彼女は「コスチュームジュエリー(イミテーションアクセサリー)」という分野を流行らせた人でもありました。彼女の好みの使い方は模造真珠と本物の真珠を組み合わせて使うことでした。それにより、本物と模造の境界をあいまいにし、真珠は特権階級の象徴から、服に合わせるためのアクセサリーになったのでした。シャネルが華々しく活躍した1920年代はアール・デコの時代であり、この美術のトレンドは、パリ・ニューヨーク・ロンドンなどで同時多発的に流行していました。アール・デコは左右対称の機能的な美を追求し、規格化された商品を志向したが、これは大量生産時代の幕開けでした。日本の真珠は統一規格と大量生産の象徴で、ネックレスに最適でした。しかし、天然か養殖か模造かではなく、真珠のネックレスであることが重要視されるようになりました。
戦前の日本の真珠輸出産業
真珠のネックレスが空前絶後の人気を誇る中、日本の養殖真珠の生産量も急増していきました。世界恐慌の影響で一時減少はしましたが、1938年には戦前の最高生産量を記録しました。一方真珠の価格は下落の一途をたどっていきました。1930年代は日中戦争が激化し、国民には勤労奉仕や消費節約が求められ、真珠業界にとって受難の時代が続くことになりました。


