私たちの地域の真珠養殖
1627年、宇和島藩は藩の財源とするために、宇和海最高の漁場“由良半島”に、須下、成、平井に「結出網」(協同漁業者組織)を作りました。 網元を中心に、山を開墾し、段畑として食料を確保しながら、この僻地の地での漁は始まり、集落が生まれました。
戦中・戦後(昭和20年前後)を通じて、この地域で生産される麦や芋まで統制食料として、食糧難時代には都会に供出されていました。 昭和20~26年ごろまでの鰯の大豊漁は、この地域に突然の好景気をもたらしました。しかし、乱獲は不漁を招き、時代人気は、食料から工業製品へと移り、また、麦・芋の安値は、生活苦に追い討ちをかけました。 そのころ、都会は好景気で、半島から都会へ労働力が流れていきました。
一方、戦後、真珠養殖業が三重県から再開されました。自由貿易になり、世界的なインフレの中で、日本の真珠は売れ、日本の花形産業として倍増に次ぐ倍増の生産と輸出を続けていきました。 市場が拡大していく中、三重県の村田真珠がここ下灘地区の嵐村に入植してきました。
この時期、三重県業者(真珠養殖)のアコヤ貝生産というかたちで、各地で真珠産業はスタートしました。ほどなく、地域の数名が宇和海での真珠養殖を志しました。 下灘地域の真珠養殖風景昭和41年から、生産過剰が起き、単価は急落し、輸出量は激減してしまいました。
しかし、その中でも由良半島の真珠は汚染のない素晴らしい漁場として、その先達の勤勉な努力で最高の真珠として取引され、少しずつ生産量を増やしていきました。
昭和50年に愛媛県が日本一の真珠生産県になったのと同時に、半島は真珠景気に沸きました。地域の人々は、勤勉に家族みなで早朝より夜更けまで働きました。美しいこの海は無限の富を与えてくれたかのようでした。
平成7年9月、真珠の大量へい死が、この地域を襲いました。大量へい死の確固たる原因は現在もわかっていません。その後、このとき、愛媛県は全国の真珠母貝の90%を生産していたため、全国的に真珠生産は激減しました。
この壊滅状況の中、養殖技術を磨き、勤勉なこの地域の養殖業者の中から、平成19年、愛媛県の真珠品評会第一位入賞者が生まれました。 私たちは自らも養殖をし続けながら、豊かな海の恵みと、生産者の絶え間ない努力の結晶をである一粒一粒をお届けしたいと思っております。